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和田町(旧夷隅郡)

房総半島の最南端(千葉県安房郡)にある和田町(現在は南房総市)では、温暖な気候を生かして花作りや、山の斜面に設置されたビニールハウスで温室栽培などが盛んに行われている地です。
また、沿岸捕鯨(ツチクジラとゴンドウクジラの漁)を行っており、国内4か所におある捕鯨基地の1つ(関東では唯一)となっています。
1988年には和田浦海岸が「日本の水浴場55選」に選出され、2001年には「日本の水浴場88選」にも選出されます。サーファーが多く訪れる地でもあります。

この地での花作りは、和田町花園に生まれた間宮七郎平の功労によります。
薬草について学んでいた七郎平は、観賞用の花の需要があることに気付き、花作りを始めます。1919(大正8)年に館山まで鉄道が開通したことで東京との距離が縮まり、都市部での花の需要に応えることができる、と七郎平は考えたのです。
「花など生活の糧になるものか」と嘲笑されながらも、七郎平は熱心に花作りを続けました。やがて鉄道が敷設され、和田浦駅からたくさんの花が出荷されることを夢見て…。
1922(大正11)年、和田浦駅が開業します。1923年、関東大震災(慰霊用の花の注文が殺到)によって一機に花作りが盛んになり、和田地区に花組合ができます。初代の組合長になった七郎平は、花の共同出荷を始めるなど、南房総の花組合のために尽力しました( 日本で初めてストックの温室栽培に成功したのは七郎平ですし、花木の山岳栽培に成功したのも七郎平です。彼は、花園の裏山の堰の周りを開墾し、谷間の堰を囲む農園「抱湖園」を作りました)。
太平洋戦争が始まり、1944(昭和19)年になって戦況が一変すると、花は作付禁止となり、さつま芋や麦が植えられるようになります。食べることのできない「花」に対する取り締まりは厳しく、苗や種も残らず焼却されてしまったのです。
太平洋戦争が終わると、再び花づくりが始まります(絶えたと思われていた球根や種でしたが、物置の隅に眠っていたものを見つけ出したり、こぼれ種が芽を出しているのを畑に植え替えたりして、少しずつ増やしていったのです)。
復興するに従い、花の需要が増えてきます。そして1953(昭和28)年、天皇皇后両陛下が千葉行幸の際に和田町の農園を天覧したことが契機となり、和田のお花づくりが再興されるのです。

和田町は、平成の大合併に伴い2006年(平成18年)3月20日に、富浦町・富山町・三芳村・丸山町・千倉町・白浜町と合併し、南房総市となりました。

管理人のコメント

南房総を旅した1月、寒さの中で一面に咲き乱れるストックを見て「春の訪れ」を感じました。

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投稿日 2017/〇/〇

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