【千葉】【千葉神社】【都賀村】【都村】【生浜町】
【千葉荘】は中世の下総国千葉郡(中央区及びその周辺)に存在した荘園です。
「千葉大夫」と称された人(平常兼?)が開いた荘園を鳥羽院に献上し、その荘園の検非違所となったと推定される地です。
鳥羽院の娘(八条院)に継承されますが、引き続き荘官として支配を続け、1126年に荘園内(池田郷)に【亥鼻城(千葉城)】を築き、【千葉氏】の祖となったのです。亥鼻城の北に尊光院(千葉神社)が設けられ、参道沿いに町が形成されました。
鎌倉時代になると、千葉氏は【下総国】の守護とともに【千葉荘】の地頭に任じられ、千葉荘の支配が確立されるのです。
【千葉】という地名の由来については諸説あり、この地に赴任した防人(大田部足人)が755年に詠んだ故郷に残した初恋の人への歌の冒頭に「知波乃奴乃(千葉の野の)」に因むという説(万葉集)、葛の枕詞「千葉」に土地と子孫の繁栄を託した、という説などがあります。
【千葉県】
明治になって【木更津県(安房地方)】【印旛県(千葉郡・印旛地方)】【新治県(下総地方)】ができ、1873年に【木更津県】と【印旛県】が統合されて、行政区画としての【千葉県】が誕生します。県庁は千葉町(千葉市中央区本千葉町)に置かれました。
1875年に【新治県】のうちの【下総国】の領域(香取・匝瑳・海上)が【千葉県】が編入され、現在の千葉県の形(チーバくん)が、ほぼ完成するのです。
1896年には県内に12の郡ができました。【千葉郡】【市原郡】【香取郡】【海上郡】【匝瑳郡】【夷隅郡】【安房郡】【君津郡】【望陀郡】【周准郡】【天羽郡】【長生郡】【山武郡】【東葛飾郡】【印旛郡】です。
【千葉郡】とは、1878年に発足した行政区画で、千葉市の中央区・稲毛区・若葉区の全域と、花見川区大部分、緑区の一部、船橋市の一部、習志野市の全域、八千代市の一部の領域に相当します。
習志野市域周辺や旧二宮町は、その中の天領が、幕末(1868年)になって下総知県事の管轄となり、1869年に【葛飾県】の管轄となました。藩領は、1871年の廃藩置県により佐倉県・生実県・龍ヶ崎県・曽我野県の管轄となり、第1次府県統合により、全域が【印旛県】となるのです。
1873年に【千葉県】の管轄となり、1878年の郡区町村編制法の施行により、行政区画としての【千葉郡】が発足したのです。
郡役所は千葉町に設置され、市原郡とともに管轄されることとなりました。
1889年の町村制施行により、千葉町・蘇我野村・椎名村・生実浜野村・誉田村・白井村・更科村・千城村・都村・都賀村・検見川村・犢橋村・幕張村・津田沼村・二宮村・大和田村・睦村・豊富村の1町17村が発足します。
そして、1921年に千葉町が市制施行し【千葉市】となり、1954年に、津田沼町が千葉市の一部を編入して市制施行して【習志野市】となったのです。1967年に八千代町が市制施行して【八千代市】となったことで【千葉郡】は消滅します。
1976年、千葉常重が【亥鼻城】に居を写した1126年から850年を記念して千葉市内で様々な催しが行われました。
【千葉市】
千葉県の中央部に位置するのが【千葉市】です。東京湾に面した千葉県最大の都市で、市政の中心地は亥鼻地区で、経済活動の中心地は中央区の千葉駅周辺・蘇我駅周辺、美浜区の海浜幕張駅周辺となっています。日本三大貿易港である千葉港を擁する港湾都市で、京葉工業地帯の中核・工業都市でもあります。
千葉市の繁栄は、1126年、千葉常重が猪鼻台(亥鼻城址周辺)に居館を築いたこと始ります。
【千葉妙見宮(明治になって「千葉神社」と改称)】の門前町として栄えました。「妙見宮」は、千葉氏の守護神・北辰妙見尊星王(天之御中主大神)を祀る寺として1000年に開山した、北極星・北斗七星信仰の神社です。
江戸時代は市域の大半が佐倉藩領でしたが、生実藩・曽我野藩などの小藩、天領や旗本・与力知行所の入り乱れた地でした。
江戸から佐倉城を結ぶ佐倉街道が整備されると、船橋宿から分岐して寒川湊(千葉港)を結ぶ千葉佐倉道や東金御成街道が整備されるようになります。将軍が休息・宿泊する為の「千葉御茶屋御殿(若葉区御殿町)」や「千葉御殿」も造られました。
江戸時代末期頃から海運業が盛んとなり、都川の水運で運ばれた物資が、登戸浦(中央区登戸)や曽我野浦(中央区蘇我)から江戸にむけて運ばれるようになります。葛飾北斎の『富嶽三十六景』の「登戶浦」には当時の様子が描かれています。
1871年の廃藩置県で「印旛県」の管轄となり、1873年に「木更津県」に合併されて【千葉県】が誕生します。亥鼻地区に県庁が設置され、それ以降、千葉市は千葉県の県庁所在地として発展するのです。
1894年に総武鉄道が開通し、1921年に市制が施行されます。この頃の市域は、中央区の北半分から稲毛区の南東部にわたり(1889年に設定された千葉町の町域)でしたが、周辺の町村の編入や埋め立てによって拡大し、戦前は軍施設が集中する軍都として発展しました。陸軍歩兵学校や気球聯隊などの軍施設の建設されました。
1945年6月10日と7月7日に大規模な空襲(千葉空襲・七夕空襲)に見舞われ、市域の7割が壊滅しますが、戦後、千葉港や京葉工業地帯が整備され100万都市に成長したのです。
1985年に千葉市動物公園が開園します。
【千葉市動物公園】とは、千葉市若葉区源町280番地にある動物公園で、立ち姿で有名なレッサーパンダ(風太くん)を飼育することで有名です。 1991年に遊園地「ドリームワールド」が開園します。入園者が1,500万人に達した2005年、2本の後ろ脚で立つレッサーパンダの風太くんで大ブームとなります。2006年には「風太」の子が誕生します。
入園者が2,000万人に達した翌年(2013)、観覧車の運営が休止され、2014年にドリームワールドが営業を終了します。2016年、跡地に「ふれあい動物の里」がオープンしました。
【都賀村】は、1889年の町村制施行に伴い、千葉郡内の西寺山村・萩台村・園生(そんのう)村・高品村・原村・東寺山村・宮野木村・殿台村・小中台村・作草部(さくさべ)村の10箇村が合併して誕生した村です。「10箇村の合併を祝賀する(十賀)」という意味を込めて「都賀」と名付けられました。当時の都賀村は現在の稲毛区から若葉区にかけての広大な地域にまたがり、村の中心は稲毛区の作草部あたりでした。
1992年の政令指定都市移行に伴い、萩台村・作草部村・園生村の地域が【稲毛区】、西寺山村・殿台村・東寺山村・原村・高品村の地域が【若葉区】、小中台村・宮野木村の各地域が【稲毛区】【花見川区】【中央区】とわかれます。
現在は、若葉区のJR総武本線と千葉都市モノレールの【都賀駅】の周辺が「都賀」と称せられますが、この駅名は「総武本線の都賀駅」の前身である【都賀信号所】が設置された当時(1912年)、その所在地が【都賀村】に属していたことによる命名だそうで、当時は、都賀村の東北端に位置していたそうです。
都賀村の中心であった【作草部】は、1963年の移転前の千葉駅があった場所です。
【都村】は、千葉市中央区と若葉区にまたがる地域で、1889年の町村制の施行の際に、辺田(へた)村などが合併して発足した村です。1937年に都村が千葉市に編入され「千葉市大字辺田」となり、1938年に「都町」と改称されました。
加曽利貝塚がある地域で、1907年から東京人類学会による発掘調査が行われ地域です。
1936年に、大山柏ら考古学者による発掘調査が行われ、翌1937年に『史前学雑誌』に「千葉県千葉郡都村加曽利貝塚調査報告」として発表されました。
1922年に千葉県農事試験場が都村に移転し、品種改良されたスイカが「都1号」の名で市場に出たそうです。
【生浜町】は、1889年に、浜野村・村田村・北生実村・南生実村・有吉村が合併して発足した【千葉郡生実浜野村】がルーツです。1925年に「生浜村」と改称され、1928年に町制を施行します。 1955年に千葉市に編入されて生浜町は廃止されます。
1958年、生浜東小学校の校庭拡張工事に先立つ七里塚古墳の発掘調査で、鉄製武具・農具・装飾模造品・銅鏡などが出土します。
1992年の千葉市の政令指定化に伴い、おゆみ野にあたる部分のみ緑区、残部は中央区となりました。
1932(昭和7)年に新築された町役場庁舎は生浜市民センターとして1991年まで使用され、1994年に千葉市文化財に指定されています。
管理人のコメント
都村(大字辺田→都町)にあった農事試験場(農業試験場)は1963年に千葉市大膳野町に移転しています。
みんなの声みなさんの思い出・感想などをお聞かせください。
投稿者
投稿をお待ちしております。
投稿日 2017/〇/〇
あなたの投稿文が掲載されます(公共性を欠く内容、日本語以外のものは掲載できません)。