【大多喜】【養老渓谷】【上総中野】
【大多喜町】は、千葉県南部の夷隅地域に位置し、夷隅郡に属する町。
戦国時代から城下町として繁栄した地です。応仁の乱以後、守護大名が台頭し、長南の武田氏、万木の土岐氏、小浜の槍田氏、安房の里見氏が衝突しました。
大多喜の街のシンボル「大多喜城」は、戦国時代に上総国を領した真里谷武田氏の築いた「小田喜城」がベースとなっています。 1544年、武田氏から里見氏(正木時茂)の支配下となり、1590年、徳川四天王の1人本多忠勝が10万石を与えられ約11年間領知しますが、この時に「大多喜城」と改名されたのです。忠勝は里見氏に備えて城を整え、城下を整備しました。房総半島の東西を結ぶ宿場町としても栄えました。
以後たびたび城主が替わり1703年からは松平氏が9代続きました。
明治維新により【大多喜県】となり、【木更津県】の所属となり、【千葉県】の所属となります。1889年に、老川村・西畑村・総元村・上瀑村・大多喜町(旧)が誕生しました。
1930年に国鉄木原線(いすみ鉄道いすみ線)が開業し、戦後(1954年)の合併により、現在の大多喜町が誕生するのです。
夷隅郡大多喜町堀切にある【上総中野駅】は、「小湊鐵道」と「いすみ鉄道」が乗り入れる接続駅です。内房線「五井駅」と外房線「安房小湊駅」を結ぼうとしていた小湊鉄道と、「大原駅」と「木更津駅」を「上総亀山駅」を介して久留里線経由で結ぼうとしていた国鉄(いすみ鉄道)の双方の房総横断線計画を、当駅で接続することで実現させたのです。小湊鉄道線で唯一、市原市に所在しない駅です。1988年に「JR木原線」が「いすみ鉄道いすみ線」に転換された際に無人駅となりました。
大多喜町の西方には、房総随一の温泉郷【養老渓谷】があります。およそ140年前に造られた隧道「弘文洞跡」は養老渓谷を代表する景勝地。手掘りの2階建トンネル「共栄・向山トンネル」が残っています。
管理人のコメント
1975年に開館した「千葉県立総南博物館」の通称が「大多喜城」です。。
みんなの声みなさんの思い出・感想などをお聞かせください。
投稿者
投稿をお待ちしております。
投稿日 2018/〇/〇
あなたの投稿文が掲載されます(公共性を欠く内容、日本語以外のものは掲載できません)。