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【習志野】【二宮(船橋市)】

下総台地の一画を占め、船橋市・八千代市・習志野市に跨がる【習志野(習志野)】は、馬牧(馬の放牧)に適した平原で、古くからの軍馬の産地で、江戸時代には幕府直轄の牧場が設置された地です。「小金ヶ原(こがねがはら)」「大和田ヶ原(おおわだがはら)」などと呼ばれ、真っ平らな高台が広がっていたそうです。

富士山や筑波山などが地平線上に見えたこの地(大和田原)で近衛兵の演習が行われたのが1873年。【大和田原】とは、陸上自衛隊習志野演習場近辺から成田街道を挟んで高根台周辺までの地域で、この地で陸軍大将・西郷隆盛の指揮のもと、演習がおこなわれたのです。
この演習を観閲した明治天皇が、この地の「習志野ノ原」への改名を求め、5月17日太政官達によって「習志野原」と命名されたのです。この時演習を行った近衛兵が核となり、「大日本帝国陸軍」が組織されます。

【二宮】
1889年、千葉郡滝台新田・薬園台新田・三山村・多喜野井村・前原新田・上飯山満村・下飯山満村の7村が合併し【千葉郡二宮村】が成立し、この地に一番営から七番営まで兵営が置かれます。
1900年・1905年の買収により演習場は、千葉郡【二宮村(船橋市)】から【大和田町(八千代市)】・【幕張町(習志野市東習志野)】にまたがるようになります。
1901年に【津田沼村大久保】に陸軍習志野衛戍病院が設置され、1905年には【幕張町実籾地区】に糧秣倉庫や高津廠舎が置かれ、ロシア人俘虜収容所とされました(第一次世界大戦の際には東新廠舎にドイツ人捕虜が収容され、それがソーセージ発祥の地として有名な【習志野俘虜収容所】です)。
この【習志野原】が全国的に知られるようになったのは、日露戦争での秋山支隊の活躍によります。演習場では、騎兵連隊の軍旗祭や騎兵学校の馬術大会が開かれ、皇族・軍人・学生をはじめとする馬術倶楽部が誕生しました。

1907年、津田沼町に鉄道連隊が転営し、1908年に千葉町に鉄道連隊が転営します。津田沼から習志野の演習場を経て千葉に至る軍用軽便鉄道が敷設されました。
1916年、東京上目黒にあった騎兵実施学校が二宮村の習志野練兵場敷地内に移転され、翌年「陸軍騎兵学校」となります。陸軍騎兵学校で開かれていた乗馬大会には、多くの見物客が訪れたそうで、ロサンゼルス五輪の乗馬で金メダルを獲得した西竹一(愛称:バロン西)が技を磨いた地です。当時、京成大久保駅周辺や習志野原の入口が近い薬円台3・4丁目付近は、活気あふれる街だったそうです。

1931年には陸軍習志野学校が開設され、化学兵器の研究・教育が行われました。 戦後、一部の陸軍施設は米軍によって接収されますが、敷地の大部分は「習志野開拓」として、外地からの引揚者などによる開墾地(北習志野・南習志野開拓農協)となりました。学校(日本大学生産工学部・東邦大学・千葉工業大学大久保寮・東邦大学付属校・千葉大学腐敗研究所学校など)や病院(国立習志野病院・千葉県済生会習志野病院など)の用地にもなり、1960年代以降は、日本住宅公団(都市再生機構)などによる大規模住宅団地(習志野台団地など)が造成されました。

「習志野」の地名は「習志野市(津田沼町)」として市町村に取り入れられます。市の成立に際し、二宮町(船橋市東部地域)や幕張町(千葉市西部地域)などの軍郷「習志野」を取り込んだ大習志野市が構想されたそうですが、太平洋戦争中に起きた空襲(二宮町空襲)による国の補償金配分を巡る対立により、二宮町は船橋市と合併し、幕張町は千葉市に編入されたんだそうです。

【二宮】は、1889年に、千葉郡滝台新田・薬園台新田・三山村・多喜野井村・前原新田・上飯山満村・下飯山満村の7村が合併して成立した村。地名は二宮神社 (旧称寒川神社)に由来します。
役場は滝台新田(二宮出張所)に置かれ、1928年に二宮町となります。「習志野地名発祥の地」である二宮町を中心に、戦後、本町・津田沼町・幕張町・犢橋村・大和田町・睦村・豊富村の7町村を合併した【大習志野市】の構想が持ち上がりました。しかし実現はされず、二宮町は1953年(昭和28年)8月1日に船橋市へ編入され、事実上消滅します。
1946年、空襲によって校舎が消失した「帝国女子医学薬学専門学校薬学科」と「帝国女子理学専門学校」が、この地に移転してきます。この学校は、1925年に東京(大田区大森西)に設立された帝国女子医学専門学校と帝国女子医学専門学校付属病院を起源とするもので、1947年に「東邦医科大学(旧制大学)予科」が開設され、「東邦医科大学付属病院」が開設されます。
1949年には「東邦薬科大学(新制大学)」が設置されました(1950年、戦後の学制改革により「東邦大学」となり、大学本部は東京都大田区の大森キャンパスにおかれます)。
「二宮」には、江戸時代、上飯山満村の名主総代を務めていた豪農・近藤四郎左衛門の屋敷も残されています。近藤四郎左衛門家は、幕府の牧場(小金下野牧)の管理を命じられた家柄で、1849年、12代将軍徳川家慶の獅子狩りの功績で帯刀・乗馬・鉄砲の所持を許されますが、昭和初期の農地改革で120町歩もの田畑を手放したと言われています。

【空挺館】
千葉県船橋市の陸上自衛隊習志野駐屯地内にある【空挺館】は、1911年、明治天皇が陸軍騎兵実施学校へ行幸する際の【御馬見所】に由来する展示施設です。1916年(大正5年)に学校が習志野原に移転した際に移築され、天皇・皇族が各種馬術や卒・終業式を観覧する為の迎賓館、入隊した皇族の為の宿舎として使われました。
第二次世界大戦後は進駐軍に接収され、司令官の宿舎として使用されていましたが、1962年に「空挺館」と改名され、現在は陸上自衛隊の空挺部隊にまつわる資料が展示されています。

管理人のコメント

「明治天皇紀」及び「明治天皇御遺跡」によると、明治天皇は計14回、習志野原に行幸されたそうです。明治8年の行幸の順路は、皇居→西小松川・伊予田村→市川の田中喜兵衛宅で昼食→八幡の安藤与兵衛宅で休憩→船橋の山口丈吉宅で宿泊→習志野原で演習を台覧→大和田の大沢小十郎宅で宿泊し帰路へ、というものだったそうです。

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投稿日 2017/〇/〇

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