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【九十九里】

九十九里浜(くじゅうくりはま)は、太平洋沿岸に面する日本最大級の砂浜海岸で、千葉県東部の刑部岬から太東崎までの5市4町1村(旭市・匝瑳市・横芝光町・山武市・九十九里町・大網白里市・白子町・長生村・一宮町・いすみ市)に跨ります。
その全域が【千葉県立九十九里自然公園】に指定されています。

【千葉県立九十九里自然公園】は、九十九里浜を中心とした千葉県東部の自然公園で【上永井自然公園】【片貝自然公園】【白子自然公園】などの施設が整備されています。面積は32.53平方キロメートルに及び、 九十九里海岸沿いには海水浴場が連続します。九十九里平野には、【成東・東金食虫植物群落】【茂原・八積湿原】などの低湿地が存在します。弓状に湾曲した約60キロの砂浜海岸が特色で、海鳥や海浜植物の宝庫です。

【九十九里町】は、九十九里浜の南部に位置する漁業の町。紀州加太浦の漁民によって開かれた【片貝(加太開)】を中心に開けました。イワシの町として有名で、
古代は「大海上国」といわれる勢力圏の一部でした。6世紀に、和珥氏の一族の【国造】が進出し、日本武尊の東征や物部氏の進出の際に通ったとされる地です。
平安時代には坂上田村麻呂などによる蝦夷征討の拠点になりました。中世には源頼朝に付いた千葉氏の支配下となり、徳川家康の関東移封にともない、九十九里浜沿岸は木曾義昌・保科正光・本多康俊・石川康通らの領地となりますが、大きな藩が置かれることはなく江戸時代を迎えます。
江戸時代には、白子町・大網白里市・九十九里町など(九十九里浜の南部の地域)では紀州漁民が入植するようになり、紀州とのつながりを深め、「地引き網によるいわし漁」などで繁栄します。享保の大飢饉の際には青木昆陽らによるサツマイモの試験栽培が行われた地です(それによって天明の大飢饉では多くの人の命が救われました)。
妙覚寺では儒学や医学が講じられ、伊能忠敬など優柔な人材を輩出した地です(伊能忠敬は九十九里町小関の名主の生まれ)。1863年には浪士隊「真忠組」が「四民平等・貧民救済」を目指して攘夷を唱えました。
明治になって漁船が大型化すると、遠浅な砂浜海岸のため漁港としての利用が減り、農業や観光が産業の主体となります。高村光太郎・竹久夢二・徳富蘆花などの多くの文人墨客が訪れる地になりました。
太平洋戦争ののち(1948年)、この海岸が突然GHQに接収されます。米軍の高射砲演習場として使用するために、九十九里浜に隣接した海域も接収され、「射撃指定海域」とされたのです。山武郡豊海町(九十九里町)の真亀川河口・隣接する民有地の合計26万8千坪が米軍基地【キャンプ・カタカイ】となりました。1951年になると、朝鮮戦争のための演習強化のため、海面接収がさらに広がり、九十九里の全漁場が演習地となるのです。
米軍の演習は月曜日~金曜日の朝から夕方まで行われました(その後、地元の反対運動によって、演習は午後のみとなり、1953年頃から月曜日~木曜日の正午~午後6時となります)。 高射砲の実弾演習が始まると、その爆音で魚群は逃げてしまい、出漁は午前中だけとなりました。住民は射撃音を「ドカン」と呼び、学校では先生の声が聞こえないなどだったと言います。漁場を奪われた漁民は漁業権の補償交渉とともに「基地反対・撤去」を求める運動を開始し、1950年の「反植民地闘争デー、片貝漁民大会」において最高潮となりました。折しもレッドパージの最中、占領当局は、この住民運動を「共産主義者に扇動された運動」として追及し、漁民を支援した日本共産党の党員9人が逮捕されました。逮捕された共産党員たちは、漁民たちから「九人の宗吾」と讃えられたそうです。
九十九里闘争に対し、日本政府は損失補償金を敗戦処理費で賄うこととしたのですが、政府から支払われた補償金は、網元40万円に対し、漁民は500円にも満たず、この不公平に異を唱えるために、相次いで漁民組合が結成されます。そして、船主を相手取って大規模な労働争議が起こりました。
1952年、千葉県議会は「射撃場撤廃に関する決議」を採択しますが、対する政府は、1957年、九十九里海岸6万坪を米軍に提供する、と閣議決定します。
しかし、住民の米軍基地反対運動に押され、また「高射砲」という戦術自体が古くなったこともあり、米軍は「永久に射撃演習を中止する」ことを表明します。これによって、九十九里浜は千葉県に返還されることとなったのですが、返還後も、訓練に使われた無人機の破片や海中投棄された軍用車両などで、地曳き網が破損する、といった被害が続いたそうです。

九十九里町が設置する【いわし博物館(閉館中)】は、江戸時代から現代に続くイワシ漁を紹介し、大型水槽で回遊するイワシを展示する世界唯一のイワシをテーマとした博物館でした。2004年に博物館の文書収蔵庫で爆発事故が発生し死者を出しました。爆発の原因は当初は不明でしたが、その後の調査により、自然噴出するこの地域特有の天然ガスが原因であることが判明します。亡くなった方は、2003年に天皇・皇后(当時)が訪問した際に展示資料を説明されていた方だそうです。
2015年、【いわしの交流センター展示室(いわし資料館)】の名称で【海の駅 九十九里】内に再建されました。

管理人のコメント

当時の九十九里浜では、飲酒運転の米兵による児童の死亡事故など、住民被害が相次いだそうです(米軍による謝罪・弁償は一切なかったそうですが…)。一方の米兵は、九十九里浜を「東洋のマイアミ」と呼んで海水浴を楽しんだそうです。

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投稿日 2018/〇/〇

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