鯨
江戸時代初期、網捕り式の捕鯨が各地で行なわれていましたが、千葉県近海の鯨(ツチクジラ)は、深く潜る習性があるため、網捕り式ではなく、モリやヤリを使った「突き捕り式捕鯨」が盛んでした。
1612年に、安房勝山(鋸南町)領主里見忠義が伊勢神宮の祈祷者にクジラの脂皮を献上した、という記録が残っております。1655年には、初代醍醐新兵衛(定明)が元締めとなり『鯨組』が結成されます。1704年には総勢500~600名の規模となっていました。
やがて、日本近海が鯨の好漁場であることを知った外国の捕鯨船(アメリカ式捕鯨)が太平洋に結集します。ランプの燃料(鯨油)を得るのが目的でした。そのため日本近海の鯨が急減します。
小型船による日本式捕鯨では沖合いまで出掛けることができなかったため、1899年、ノルウェーの捕鯨技術を学んだ岡十郎によって「日本遠洋漁業」が設立されました(後の「東洋捕鯨」)。
1907年、館山において鏑木余三男が「房総遠洋漁業」を設立します。蒸気船「天富丸(130t)」とグリーナー砲・銛をノルウェーから購入し、操業海域を拡大しました。
日露戦争後(1908年)、捕鯨会社が乱立したため大手4社が合併し、残った会社が千葉に戻りました。
千葉に戻った「東洋捕鯨」は館山を基地として銚子にも進出しましたが、鯨資源の減少により撤退します。
「東海捕鯨」は捕鯨規制枠外のツチクジラなどを追う小型沿岸捕鯨の一地方業者となりました。
戦後、県から政府に捕鯨管轄権が移されます。
これによって捕鯨許可枠が増やされ、「外房捕鯨」が設立されるのですが、房総沖のツチクジラの減少で、「外房捕鯨」は宮城県鮎川を基地とするミンク鯨漁にも参加せざるを得なくなります。そのため、4・5・6月はオホーツク海でのミンク漁、7・8月は千葉の和田に戻りツチクジラ漁をした後、9・10月になるとミンク鯨を追って操業する、という状況となりました。
しかし、 1987年、国際捕鯨委員会(IWC)によって1988年(昭和63年)からの商業捕鯨が禁止されます。
ミンククジラなどの大型鯨の捕獲ができなくなり、外房捕鯨は小型のツチクジラとゴンドウクジラ漁に専念することとなります。2005年には、ツチクジラ・ゴンドウクジラを捕獲する小型沿岸捕鯨業者は「外房捕鯨」を含めて数社となってしまいました。
2014年、国際司法裁判所で日本の調査捕鯨が商業捕鯨モラトリアム違反である、との判決が下され、捕鯨にまつわる環境は厳市くなるばかりです。
管理人のコメント
小学校の給食で鯨がよく出てきたな~、と懐かしく思います。
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投稿日 2017/〇/〇
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