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空襲

第二次世界大戦における日本本土への初空襲は1942年(昭和17年)4月18日でした。
アメリカの航空母艦「ホーネット」から16機のB25中型爆撃機が発進され、東京・川崎・名古屋・四日市・神戸などが攻撃されたのです。
その頃の千葉は未だ緊迫感が薄いものでしたが、1944年7月にサイパンなど(マリアナ群島)がアメリカ軍によって制圧されたことで、B29による日本への空襲が本格化します。
1945年3月9~10日、東京大空襲と略同時に銚子市が空襲を受けました。
B29が栄町・陣屋町・新生・本通り方面に大量の焼夷弾を投下し、所何処で炎が上がります。折からの強風に煽られて燃え広がり、市の中心部は炎の海となりました。駅前の商店街は焼け落ち、利根川まで見通しせるようになったそうです。
6月10日にもB29の編隊100機によって千葉市が空襲されます。標的は蘇我の日立航空機千葉工場(跡地はJFEスチール東日本製鉄所)でした。この空襲によって千葉県立千葉高等女学校(千葉県立千葉女子高等学校)などが被災しました。
7月7日の深夜、省線千葉駅、(旧)京成千葉駅、椿森や作草部の軍事施設(鉄道第一連隊・気球聯隊・陸軍高射学校など)が空襲を受けます。B29による焼夷弾で千葉市中心地のほとんどが焼け野原となりました。
7月19日~20日、再び銚子市がB29による空襲を受けます。銚子への空襲は8月1日~2日にも行われ、計3回となります。
人口6万人に過ぎない銚子市が標的とされた理由について、本土決戦にあたりアメリカ軍は九十九里から上陸することを考えていたのではないか、との説もあります。
焼失した銚子駅は、海軍・香取航空基地にあった飛行機格納庫を転用して再建されました(現在は取り壊され、新たな駅舎となっています)。  

管理人のコメント

「本土決戦」という事態にならなかったことが不幸中の幸い・・・と考えるべきなのでしょうか・・・。

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投稿日 2018/〇/〇

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