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【木更津】【木更津港】【木更津キャッツアイ】

江戸期より港町として栄えた【木更津】は、市の西部(木更津地区、清川地区)は東京湾に面する沖積平野。北部(岩根地区、金田地区、中郷地区)は泥層を主とする田園地帯でハス田が広がり、東部(富来田地区)の小櫃川流域には上総丘陵の森林が広がります。
【小櫃川】は、利根川に次いで県で2番目に長い川で、君津市・袖ケ浦市・木更津市の3市を流れて東京湾に注ぎます。河口付近には盤洲干潟が形成されています。
木更津港南岸から君津市方面に掛けての沿岸地帯は工業用の埋立地。木更津駅や重点港湾(重要港湾)の木更津港が存在する地です。
「木更津」という地名の由来については、「如月の津」が転じたという説、「木足らず」が訛ったという説などがありますが、倭建命伝承の一説である「君不去(きみさらず)」を元としている、というのが通説です。
『古事記』や『日本書紀』によると、倭建命が東征の折にこの地方に立ち寄ったそうで、小櫃川流域を中心とする地域には豪族(国造)が存在していたことを示す古墳群が存在します。
奈良時代には、櫃川流域一帯(木更津市・袖ケ浦市・君津市の一部)に、馬来田国造という豪族が支配する【馬来田国】が存在したそうで、【長須賀】の金鈴塚古墳(二子塚古墳)から、馬来田国造の一族のものとされる大刀・銅容器・武具の元となる金が出土したそうです。

1456年頃、上総武田氏の祖・武田信長が上総守護代となり、上総地方進出の足がかりとして【真里谷城】が築城されました。真里谷氏として戦国大名化しましたが、第1次国府台合戦の後衰退し、上総地方の支配者は里見氏、北条氏へと移ります。1590年に豊臣秀吉の小田原征伐の際に侵攻され、廃城となった真里谷城跡は、現在、キャンプ場(少年自然の家)として利用されています。

【木更津港】については、1353年の文献の「木佐良津」が初出です。しかし、当時は【高柳】や【富津】が江戸湾沿岸を代表する港でした。
1614年の大坂冬の陣で、木更津の水夫が徳川幕府方について戦功を上げ、その功により、江戸・木更津間の渡船営業権、日本橋の「木更津河岸」などが与えられたのです。それによって、木更津が上総・安房と江戸を結ぶ海上輸送の拠点となりました。運送には海川両用の船(五大力船)が用いられ、木更津からの五大力船は「木更津船」と通称されていたそうです。
江戸時代末期(1825年)、幕府の旗本・林忠英により「貝淵藩」が立藩され、2代目藩主の時代に【請西村】に陣屋を移し「請西藩」と称されるようになります。「請西藩」は、藩主自ら脱藩して官軍に抵抗したことが朝敵行為とされ改易され、1868年に請西藩の替わりに松平信敏による「桜井藩」が立藩され、【上総国貝淵】に陣屋が移されました。
1871年の廃藩置県の施行により【桜井県】が設置され、桜井県を含む旧安房国・上総国に【木更津県】が設置されます。しかし、1873年に廃止され、【印旛県】と合併して【千葉県】となったのです。

1930年代は、木更津は軍都として発展しました。1935年、木更津港北側が埋め立てられ、大日本帝国海軍の航空基地が造成されます。1936年に木更津飛行場が完成し、木更津海軍航空隊の開隊式が行われました。太平洋戦争末期に日本初の国産ジェット機「橘花」のテスト飛行が行われた飛行場です。1941年には君津郡巖根村に海軍工廠が設置され、そこで働く工員が移住し、人口が急増しました。
太平洋戦争終結以降は米軍の管理下に置かれ、1968年より陸上自衛隊の駐屯地、海上自衛隊の補給所となっています。
1961年、木更津市に隣接する君津市への製鉄所の誘致が決定。1965年に君津製鐵所が操業し、木更津市内には関連会社の進出や社員の移住が増えます。清見台・請西・畑沢などを中心に計821ヘクタールの宅地造成が行われ、市内の人口は1960年の約6万人から80年代中頃には12万人まで膨れ上がりました。
1983年に千葉新産業三角構想が策定され、研究開発拠点の形成を目標としたかずさアカデミアパークが建設されることとなり、1994年にはDNA専門の研究所として世界初の「かずさDNA研究所」が開設されました。
他の都市との道路網が整備され、1997年には神奈川県とを結ぶ【東京湾アクアライン】が完成します。アクアラインの着岸地である金田地区には、2012年に「三井アウトレットパーク木更津」がオープンしています。
東京湾で獲れる「のり」「あさり」「ハマグリ」などが特産品で、童謡『証城寺の狸囃子』やドラマ『木更津キャッツアイ』の舞台にもなりました。ロックバンド「気志團」の結成地です。

【木更津キャッツアイ】は、2002年1月18日から3月15日まで放送されたテレビドラマ(主演は岡田准一、監督は宮藤官九郎)。木更津市で撮影が行われたため、多くのファンが訪れました。一話を野球のゲームになぞらえて表と裏の二部に分け、ストーリーの裏で何があったかを巻き戻して説明したり、哀川翔や氣志團などを実名の役で登場させたり、30pプログレッシブカメラで映画に近い質感としたり・・・、といった実験的な試みが取り入れられました。
放送終了後、テレビドラマとしては異例のDVD販売数50万セット超を記録し、これが映画化に繋がります。
2003年に『木更津キャッツアイ 日本シリーズ』として映画化され、動員120万人(興行収入15億円)の大ヒットを記録します。
2006年に第2弾(完結篇)『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』が公開されます。この年、木更津キャッツアイに市民栄誉賞が贈られました。
第4話等で披露された木更津の名物踊り「やっさいもっさい」が有名になり、赤い色の「中の島大橋」がドラマ内のでっちあげ伝説(恋人同士がおんぶをして渡ると結ばれる)に登場したために話題となり、2010年に「恋人の聖地」に指定されたり・・・、といった効果もありました。「恋人の聖地」は、鋸山(富津市金谷周辺)、京成バラ園(八千代市)に続く、千葉県内で3番目の聖地です。

市内の【證誠寺】は「証城寺の狸ばやし」にまつわる伝説が伝わる寺院です。その伝説『狸囃子』を元に、詩人の野口雨情が作詞し、中山晋平が作曲して発表された童謡が【しょ、しょ、しょ~じょう~じ」の童謡です。證誠寺の境内には、腹を破って死んだ狸を供養するための「狸塚」があり、毎年秋には狸の供養として「狸まつり」が開催されるそうです。

管理人のコメント

江戸時代末期の木更津(請西藩)は藩主自ら脱藩して官軍に抵抗した、というつわもの。「請西藩」の替わりに「桜井藩」が立藩され、その陣屋跡に、1973年「木更津県史蹟」の石碑が建てられました。
1997年に東京湾アクアラインが開通しますが、高額な通行料(開通時は4000円)のため「木更津を首都圏のベッドタウンに」という目論見は外れ、木更津駅前の商店街は衰退します。多くの若者が都内に流出していく中、大都会周縁の田舎(=木更津)で暮らす「ヤンキー」の劣等感と地元愛(都会へのひそかなあこがれと反発)が見事に表現されているのが「木更津キャッツアイ」。映画を見に行ったら、周りは若者ばかりでしたが、おばさんでも楽しめました。

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投稿日 2018/〇/〇

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