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【検見川】【蘇我】【都賀】【都】

【検見川】は千葉街道の宿場町。千葉郡の拠点の1つでもありました。「けみ川」は戦国時代に存在した地名です。
しかし「検見川」という川は存在せず、この地に存在する川といえば「花見川」。
室町時代後期(1509年)、京都の連歌師・宗良の紀行文「東路の都登」 に「はまのむらをたちて、気見川といふ所に浦風余り烈しかりしかば、一宿して…」という一節があり、この「気見川」が「ケミ川」だとされています。「毛見川」「華見川」と書かれた記録もありますので、「花見川」も「ケミ川」の表記の一つだったと考えられます。
江戸時代、「稲毛村」と「畑村」と共に【検見川村】が誕生します。この3村は下総知県事の管轄となり、1869年に【葛飾県】となり、1871年に【印旛県】の管轄となり、1873年の木更津県と統合によって【千葉県】となります。
1889年の町村制の施行より、検見川村・稲毛村・畑村が合併し【千葉郡検見川村】が発足し、善勝寺に村役場が設置されました。
1899年の総武鉄道(幕張駅~千葉駅)の延伸にともない稲毛駅が開業し、1921年に京成電鉄千葉線(津田沼駅~千葉駅)の開業にともない【検見川駅】が開業します。1937年に千葉市に編入され、検見川町は廃止されました。1992年に千葉市が政令指定都市に移行すると、旧・検見川町域は【花見川区】となり、旧・稲毛村が【稲毛区】となったのです。

【蘇我】は、1889年の町村制施行により、曽我野村・今井村・宮崎村・大森村・赤井村・小花輪村・生実郷が合併して誕生した【蘇我野村】に由来します。
1890年の町制施行の際に【蘇我町】と改称され、1937年に都村・都賀村・検見川町とともに【千葉市】に編入されます。1992年の千葉市政令指定都市移行に伴い、旧町域が【中央区】の一部となりました。

【都賀】の名称は、1889年に10村が合併して誕生した「都賀村」に由来します。
1912年、総武本線千葉・四街道間に「都賀信号所」が開業します。1965年の総武本線千葉・四街道間の複線化を契機に「都賀仮乗降場」に昇格し、1968年に【都賀駅】となりました。都賀信号所が開設された当時は「都賀村」に属していたことから「都賀信号所」の名称がつけられたのです。が、そこは村の中心部から離れた地で、当時の都賀村の中心地は【作草部(さくさべ)】でした。

【都】は、1889年の町村制の施行により、辺田(へた)村などが合併して発足した村です。1937年に都村が千葉市に編入され「大字辺田」となり、1938年に「都町」と改称されたのです。2020年には若葉区加曽利町の南西端の一部が境界変更により都町七丁目に編入される予定です。

管理人のコメント

1889年に誕生した「都賀村」の中心地【作草部】は、以前に【千葉駅】があった地域です。現在の【東千葉駅】が当時の繁華街だったのですね。

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投稿日 2018/〇/〇

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