【上総国】【上総国分尼寺跡】
【上総国(かずさのくに)】とは東海道に属する律令国。
【上総】という地名は、『古語拾遺』によれば「よき麻の生きたる土地」という意味の「捄国(総国:ふさのくに)に由来します。黒潮にのってやってきた移住者によって、外房側から開拓がはじまったことから、
房総半島の南東側が「上総」、北西側が「下総」となったのです。「毛野」から分かれた「上野」「下野」と同様、「上総」「下総」の分割も6世紀中葉と考えられています。
ヤマト王権と緊密なつながりを有する地で、6世紀から7世紀にかけ多くの国造が置かれました。律令制以前は、須恵・馬来田・上海上・伊甚・武社・菊麻・阿波・長狭の8つの国造が置かれ、律令制下、市原郡・海上郡・畔蒜郡・望陀郡・周淮郡・埴生郡・長柄郡・山辺郡・武射郡・天羽郡・夷灊郡・平群郡・安房郡・朝夷郡・長狭郡の15の郡をもって「上総国」が成立したのです。
826年、上総国・常陸国・上野国の3国が親王任国(国守に必ず親王が補任される大国)となります。親王太守は現地に赴任しませんので、菅原孝標などの「上総介」が実質的な長官でした。
古代末期から中世にかけて「上総氏」が活動し、後に「足利氏」が支配します。 室町時代の守護には、高氏・佐々木氏・千葉氏・新田氏・上杉氏・宇都宮氏などが就きました。
15世紀半ばごろより、原氏・武田氏・酒井氏・土岐氏・正木氏らの各氏が割拠し、16世紀前半には、下総生実に拠った小弓御所足利義明の影響が強まります。しかし、1538年に足利義明が国府台合戦で敗死し、後北条氏(小田原)と里見氏(安房)との抗争の場となりました。
豊臣秀吉の小田原征伐後、関東に徳川家康が転封されると、久留里藩・飯野藩・佐貫藩・鶴牧藩・一宮藩・大多喜藩・請西藩の7藩と幕府領・旗本領が置かれました。
幕末から明治政府成立の過程で請西藩が領地没収され、菊間藩・金ヶ崎藩(桜井藩)・小久保藩・鶴舞藩・柴山藩(松尾藩)・大網藩の6藩が置かれ、幕府領・旗本領は安房上総権事・柴山典の管轄下に置かれます【宮谷県】。
1869年の版籍奉還で藩主が知藩事になり、1872年の廃藩置県により旧藩領と宮谷県が統合されて【木更津県】となります。そして1874年、【木更津県】と【印旛県(下総を管轄)が統合されて【千葉県】が成立したのです。
【上総国分尼寺跡】は、千葉県市原市国分寺台中央3丁目にある古代寺院跡です。
奈良時代、聖武天皇の詔により日本各地に国分寺が建立されましたが、上総国において建立された尼寺が、この【国分尼寺】なのです。養老川北岸の台地上に造られた約12万平方メートルの大伽藍でした。
南西方には【上総国分寺跡】があり、周辺には古墳・遺跡や瓦の窯跡が確認されています。国分尼寺の伽藍には2つの造営時期があり、国分寺の伽藍にも同様に2つの造営時期があることから、国分尼寺と国分寺は同一の計画で進められたのではないか、と考えられています。
1989年までの発掘調査で柱の位置が確認され、主要伽藍の構造が解明されました。これによって、建物跡の復元が可能となったのです。
1993年、奈良時代の工法を再現する形で中門が復元され、「史跡上総国分尼寺跡展示館」として開館されました。
管理人のコメント
日本の至る所にある「国分寺」の地名に古代のロマンを感じます。
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投稿日 2018/〇/〇
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