【勝浦】【興津】【行川アイランド】
【勝浦市】は、県南東部(夷隅地域)に位置する市で、地名は、紀伊半島に所在する「勝浦」と同様、天富命とともに阿波国から移住した「勝占」の忌部氏に由来するとされています。1955年に勝浦町・興津町・上野村・総野村が合併して【勝浦町】が発足し、1958年に【勝浦市】となったのです。
縄文時代、夷隅川に沿って小規模な集落が興り、【興津】の港から奈良へとアワビが運ばれたそうです。
戦国時代、里見氏の武将・正木時忠が勝浦城に入り、地域一帯を領有しました。中世末から近世初頭にかけて遠隔地交易の中継基地として発展した地です。
590年、徳川家康の幕臣・植村土佐守泰忠が勝浦城に入城し、町屋を営んだのが勝浦市街地のおこりです。勝浦地区にある「勝浦漁港」は、銚子漁港に次ぐ千葉県内第2位の漁港。カツオの漁獲量では日本一です。日本三大朝市の1つ「勝浦朝市」、かつうらビッグひな祭り、ご当地ラーメン「勝浦タンタンメン」で有名です。リゾート開発が進み、海水浴場が豊富にある地です。
【勝浦市興津字要害】には、かつて「奥津城(おくつじょう)」がありました。「奥津城」の別名は「興津城(おきつじょう)」。1258年、地元の武士・佐久間氏によって築城されたと伝えられています。その後、真里谷氏・正木氏の支配下となり、1580年、大多喜城主の正木憲時が里見義頼に叛旗を翻した際に、里見軍に攻められて城郭部分以外が撃破されたそうです。1590年の小田原征伐後に廃城になりました。
海に向かって伸びる丘陵(標高は約120m)の南端に位置し、北側には城下の集落があったそうです。興津城からは行川・鵜原から勝浦湾にかけての海岸線を見渡すことができます。
江戸時代、妙覚寺に仙台藩取締り所がおかれ、江戸と東北を結ぶ重要港として繁栄しました。
1951年に避難港の指定を受けた【興津港】は、外房海岸の中部に位置し天然の湾形を持つ港。1953年より防波堤・船揚場・物揚場が整備され、小型船の船だまりとして利用されています。
1996年には「エコ・コースト事業」の指定を受け、アカウミガメを主体とした生態系や自然環境に配慮した海岸整備が行われています。
【行川アイランド(なめがわアイランド)】は、かつて勝浦市浜行川にあった動・植物園を中心としたレジャー施設。1964に開園し、フラミンゴショーの人気などから1970年に年間117万人もの入場者数を記録しました。
希少な水牛「アノア」が飼育されており、クジャクのダイビングショー、ホロホロチョウの空中パレードショー、アシカの餌付けショーなどもありました。しかし1970年に、近隣の鴨川町に大規模水族館の鴨川シーワールドが開園すると入場者数が減少し、1976年に会社更生法を申請します。
1980年代前半に、太海フラワーセンター(鴨川市)・ロマンの森共和国(君津市)・マザー牧場(富津市)などが相次いで開業し、1983年に東京ディズニーランドが開園すると、千葉県内の観光客を大きく奪われ、2000年の入場者数は年間19万人まで減少します。開園以来ショーを行ってきたフラミンゴも高齢化し、その購入費用にも困窮し、2001年に閉園が決定されます。
管理人のコメント
「行川アイランド駅」は閉園後も無人駅として残されています。
千葉県内で唯一キョンを飼育していた園で、1980年代以降に一部が逃げ出して野生化し、千葉県南部を中心に自然繁殖して農業被害を及ぼしました。2019年には千葉県全体で4万頭にまで増え、他県にも侵入することが懸念されています。
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投稿日 2018/〇/〇
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