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[夷隅]【いすみ市】[大原]

「夷隅」は、古代「伊甚国」と呼ばれていた地。この地で採れる真珠は大和朝廷への献上品でした。
『日本書紀』には、534年に、伊甚国造(伊甚稚子)による真珠の献上が遅れ、その罪を逃れるために自身の領地を献上して「伊甚屯倉」となったことが記録されています。
鎌倉時代末期に禅僧(夢窓疎石)が修行のために籠ったとされる史跡(坐禅窟)があり、その前方に所在する「太高寺」には、疎石のものとされる袈裟2領(県指定文化財)が伝わっています。
戦国期は、上総土岐氏が当地を支配して「万喜城」を築きました。夷隅川流域に多くの支城が築かれましたが、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐で開城。万喜城は、本多忠勝(徳川四天王の一人)のものとなり、やがて本多忠勝が「大多喜城」に移ると廃城となります。新田開発された市域の多くは「大多喜藩」の領地でしたが、本多氏の転封後、旗本領や各藩の飛地領に細分化されたのです。
江戸時代中期になると沿岸地域で地引網漁が盛んになります。祭礼も盛んになり、当時の発展は「大原はだか祭」「中根六社祭」「上総十二社祭」などに名残を留めています。
岬町長者地区からは儒学者が輩出され、房総各地の寺社・史跡・伝承を記録した地誌『房総志料』が編纂されました。彫刻師・武志伊八郎信由による行元寺や飯縄寺などの欄間彫刻も有名です。
明治維新後の廃藩置県で、市域は[大多喜県][花房県][宮谷県]の管轄区域となり、その後[木更津県]となり、【千葉県】となります。房総鉄道が整備され、夷隅川河口付近から大原海岸にかけては、東京方面から多くの人々が訪れる避暑地となりました。

【いすみ市】は、千葉県南東部の夷隅地域に位置する大原を中心部とする市です。 大原漁港の沖合には「器械根(きかいね)」と呼ばれる日本最大級の岩礁(暗礁)や海中林があります。 親潮と黒潮がぶつかる海域で、水深20メートル程度の浅さなので、多種多様な魚が生息する海域です(イセエビは「外房イセエビ」と称されるブランド品です)。 北東部には九十九里平野の南端に位置する「太東岬」があり、これより南方は「南房総国定公園」に指定される丘陵地です。北東部は、稲作のほかに梨栽培も盛んです。

[大原町]は、2005年に夷隅町・岬町との合併により「いすみ市」の誕生と共に消滅しました町です。1990年にダルース市(アメリカ・ミネソタ州)と「平和の鐘(梵鐘)」が縁となって姉妹都市となりました。 「平和の鐘」とは、長栄寺にあった梵鐘で、太平洋戦争中に軍用物資製造用材料として供出されたものです。使用されないうちに終戦を迎え、1946年に米軍によりアメリカに渡り、ダルース市の市長室に飾られていたのですが、1954年に大原町に戻ってきたのです。

管理人のコメント

『房総志料』は、曲亭馬琴が『南総里見八犬伝』を執筆する際の参考にされました。山本有三は、大原海岸の塩田川河口近くの旅館に逗留し、この周辺を舞台にした小説「真実一路」を著し、森鴎外は夷隅川の河口近くの別荘で「妄想」を執筆したそうです。夷隅から多くの文学が生み出されたのですね。

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投稿日 2018/〇/〇

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