【安房】【鋸南】[保田][勝山][房州]
古代の「安房国」は安房神社の神郡で、「阿波国造」と「長狭国造」の2つの国造が治めた地域でした。
「安房神社」とは、房総半島最南端部の「吾谷山(あづちやま)」の山麓に鎮座する神社で、伝承では、神話時代に阿波地方(現在の徳島県)から渡ってきた忌部氏(斎部氏)による創建です。『古語拾遺』によれば、阿波国において穀物や麻を栽培していた天富命が、東国により良い土地を求め、阿波の忌部氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸して開拓したのだそうです。この「阿波」の忌部氏の住んだ所が「安房」と呼ばれるようになるのです。
古代の安房国はアワビの貢進地であり、安房国の中心的神社である安房神社は、「出雲国造」「紀伊国造」と並び、律令制下の祭祀において重要な地位を有していたのです。
律令期に「上総国」の一部となりますが、718年に阿波と長狭の領域(平群郡・安房郡・朝夷郡・長狭郡)が分離され「安房国」が作られます。国府は、現在の南房総市府中付近、安房国分寺は館山市国分に置かれました(跡地は日色山国分寺)。
中世は、丸氏・長狭氏・安西氏・神余氏などの武士団が活動した地です。平安時代末期、源頼朝が再起を果たした地でもあります。 室町時代の守護は結城氏・上杉氏でしたが、15世紀半ば頃から里見氏が台頭し、豊臣秀吉による小田原城攻め以後は里見氏の領地となります。
関ヶ原の戦いにおいて徳川側についた里見氏でしたが、江戸幕府成立後(1614年)、大久保忠隣の改易に連座して倉吉(伯耆国)に転封され、その後、東条藩・勝山藩・上総百首藩・北条藩・館山藩などの諸藩と、幕府領・旗本領が置かれました。
1872年の廃藩置県によって「木更津県」に編入され、1874年の木更津県と印旛県の合併により千葉県に編入され、1897年に安房国4郡が統合されて「千葉県安房郡」となったのです。
2006年(平成18年)に郡内の7町村が合併して南房総市となり、【安房郡】は旧平郡の【鋸南町】のみとなりました。
【鋸南町(きょなんまち)】は、東京湾岸(内房)は南房総国定公園、内陸の山間部は房総丘陵を抱える観光都市。北端の富津市との境には鋸山があり、南端は浦賀水道に突き出た西ヶ崎です。保田、勝山などの漁港があり、勝山沖には島や岩礁が多数あります。日本三大水仙群生地でもあります。
鋸南町の北部にかつてあった[保田町]は、1911年に才賀藤吉が房総電気を設立し、保田発電所(瓦斯力)を建設したことで古くから電化された町でした。現在は内房線保田駅、「道の駅」に生まれ変わった保田小学校などに、その名をとどめています。
安房国北西部で、浦賀水道に面した[勝山]は良港の地。戦国時代、港を見下ろす八幡山に「勝山城」が築かれ、水軍の拠点となりました。1590年の秀吉の小田原征伐ののち、里見氏に安房一国(9万2000石)が安堵され、関ヶ原の戦い以降に「館山藩」が成立したのです。しかし1614年、里見氏が安房国を没収されると、小藩・旗本領・他国の藩の飛地として安房は細分化され、勝山の地は、上総国佐貫藩主・内藤政長に与えられました。 その後、安房勝山藩は廃藩となり、若狭小浜藩主酒井忠勝の所領となり、1668年に小浜藩主の甥(酒井忠国)に分知され、再び「安房勝山藩」が立藩されたのです。平郡の勝山陣屋(千葉県安房郡鋸南町勝山)に藩庁が置かれ、廃藩置県まで9代約200年にわたって存続しました。
勝山藩は佐幕派と尊王派に分裂したまま戊辰戦争を迎えますが、最終的には新政府に恭順し、1869年に「加知山藩」と改称され、1871年の廃藩置県で「加知山県」となり、「木更津県」に再編されたのです。
管理人のコメント
「安房国」の別称は「房州」。「房州」の語は「房州うちわ」「房州びわ」などに使われていますが、いずれも安房地方の特産品です。 「房州うちわ」は千葉県南部(南房総市と館山市)で受け継がれている伝統的工芸品で、「房州びわ」は1751年頃から栽培され、江戸の市場に出回る特産品でした。皇室への献上は、1909年から続けられてきており、2014年に献上100回目を迎えたと言われています。
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投稿日 2017/〇/〇
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