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【千葉工業大学】【東邦大学】

【千葉工業大学】は、教育学者の小原國芳らによって、【玉川学園】のプライベート大学として計画された「玉川塾工業大学」をルーツとします。
この大学は、軍部(特に陸軍)などからの圧力を受けていましたが、小原の考えに共感し、支援を続ける有力者が多数いたため、近衛文麿内閣下の文部省によリ【国策大学】に指定され、1942年、東京帝国大学の全面協力のもと【興亞工業大學】の名称で玉川学園内に設立されることとなったのです。この頃の大学での生活は、戦時下にもかかわらず、芝生の上で生徒が教師を囲みながら英語・音楽・道徳などについて語り合う、といった自由な雰囲気だったといいます。
制服は、当時の多くの大学が「学生服・黒マント・白線帽】であったのに対し、「背広にネクタイ」といった紳士的なものだったそうです。国家枢要を担う人材の養成を目的としたため、「東京大学工学部」との学術交流が深かったようです。
戦時下、一部の理工系学生は徴兵を猶予されていましたが、1944年(昭和19年)8月23日から、学徒勤労令に基づく動員の対象となります。その際、陸軍・海軍関係の研究所や工場などに派遣され、航空工学科の学生には、東大航空研究所(宇宙航空研究開発機構-JAXA)に派遣され、糸川英夫のもとで航空機の研究開発を手伝った者もいたそうです。
中島飛行機の三鷹工場に動員された学生の中には、空襲で犠牲になった者もいたそうです。
戦後(1946年)、千葉県君津市に移転し【千葉工業大学】と改称されます。
1950年、学校教育法に基づき、新制の私立大学へと移行し、習志野市の津田沼校地へ移転します。現在、津田沼キャンパス・新習志野キャンパス・東京スカイツリーキャンパスの3つのキャンパスを有する大学となっています。

【東邦大学】は、1925年に額田豊・晉の兄弟が、大森(東京都)に設立した「帝国女子医学専門学校」と「帝国女子医学専門学校付属病院」を起源とします。
1945年、空襲により【帝国女子医学薬学専門学校】の校舎が焼失し、翌1946年に千葉県習志野市(習志野キャンパス)に移転したのです。その翌年、「東邦医科大学(旧制大学)予科」が開設され、東邦医科大学付属病院が開設。
1950年の学制改革により【東邦大学】となり医学部・薬学部・理学部が設置されます。大学の本部は東京都大田区(大森キャンパス)です。
1952年、千葉県習志野市に【東邦大学付属東邦高等学校】が開設され、1957年には東京都世田谷区に【駒場東邦中学校】【駒場東邦高等学校】が開設されます。

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投稿日 2018/〇/〇

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