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日中戦争

【日中戦争】とは、1937年7月から 1945年8月までの日本と中国の間の戦争です。 1941年 12月からは日本の真珠湾攻撃によって始まった太平洋戦争に含まれるため、日中戦争の戦争期間は「1937年から 1941年まで」とされる場合が多いです。

1931年の犬養毅首相の殺害(5.15事件)により政党政治は終わりをつげ、1936年の政府の大臣らが殺傷(2.26事件)により旧官僚が一掃されました。
日本は、共産主義に対抗するために「日独伊防共協定」を締結します。
そして、アメリカ・イギリス・ソ連の援助を受けて抵抗しようとする中国(国民政府)との間で、1937年の盧溝橋事件を契機に、日中戦争を開始します。

日本軍は爆撃を繰り返し、中国各地を占拠しました。
南京を陥落した近衛首相は、木戸幸一文相に、中国側に提示する和平条件を検討させます。
依頼を受けた木戸は、「全くつかみどころのない4条件だけを中国(国民政府)に提示する」ことを提案しました(この4条件について、駐日ドイツ大使は「日本はこれを中国側が拒否することを欲しているようだ」と本国に打電したそうです。1938年の第1次近衛声明「国民政府(中国政府)を対手にせず」の意図をうかがい知ることができます)。

しかし、1938年の張鼓峰事件、1939年のノモンハン事件(満蒙国境付近での衝突)を経て日本陸軍は、第1次・第2次五カ年計画を経て国力を回復させていたソ連を前に敗退を強いられ、日中戦争が行き詰まりはじめます。

その頃、第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線)においてフランスがドイツに降伏します。ドイツの勢いに意を強くした日本は、フランス領のインドシナへの侵攻を開始するのです。フランス領インドシナには、アメリカやイギリスから中国への輸送ルートがありましたので、それを断ち切ることで中国との戦いを有利に進めようとするものでもありました。

日本軍による侵攻が始まると、アメリカは日本への石油輸出の禁止・在外資産の凍結などによって対抗します。
日本はアメリカに対して平和交渉を試みますが果たせず、12月8日(現地7日)、宣戦布告なしに(つまり、宣戦布告の連絡がアメリカ側に届かないうちに)、マレー上陸と真珠湾への襲撃を開始したのです。

日中戦争開始後の第一次近衛内閣では、文部省に「教学局」が設置され、「国民精神総動員実施要項」が決定されました。情報統制を行うために「内閣情報局」が設置され、民間の婦人団体が多数設立されることとなりました。日本企業の満州進出も加速しました。
「国民政府を対手にせず(第1次近衛声明)」と平和交渉の打ち切りを宣言した1938年には、国家総動員法、国民健康保険法、社会事業法、農地調整法、電力管理法が公布されました。
勤労動員が始まり、大日本陸軍従軍画家協会が結成され、従軍作家陸軍部隊が戦地へと派遣されました。
1938年11月に東亜新秩序建設が宣言され(第2次近衛声明)、12月には「善隣友好、共同防共、経済提携を旨とする近衛三原則を声明します(第3次近衛声明)。
1939年1月、近衛内閣の後に平沼内閣が成立した翌日、ドイツ(ヒトラー)から「日独伊軍事同盟」の具体案が持ち掛けられました。この同盟は、すでに締結されている「日独伊防共協定」を前提とするものと考えていた日本は、その年の5月に、ドイツがソ連との間で不可侵条約(独ソ不可侵条約)を締結し、仰天します。この政情に「複雑怪奇」の言葉を残して、第一次近衛内閣の後の平沼内閣が総辞職したのです。

©Asahi,Naoko

管理人のつぶやき

日中戦争開始後の第一次近衛内閣において、国民精神が戦争に向けて総動員される制度が整えられたのですね。情報統制が行われ、戦争を賛美する教育が制度化されました。この頃、民間の婦人団体が多数設立されたと言いますから、近衛首相の女性人気は、ドイツのヒトラー並みだったのですね。「国民を盲目にするための制度を整えた」という点でもヒトラーに似ています。
①日本政府VS外国と、②日本政府VS日本国民と、を切り分けて考えてみることで、戦争に向かう日本の様子が少し理解できたような気がします。

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投稿日 2017/〇/〇

投稿者 〇〇

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