【満洲事変】とは、1931年9月から翌3年に至る一連の軍事行動であり、具体的には、1931年9月18日、中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖において発生した「関東軍による南満洲鉄道の線路爆破事件」に端を発する満洲(中国東北部)占領と、1933年5月31日の塘沽協定に至る一連の武力衝突(中国では918事変と称されています)を言います。
1900年の義和団事件以降、ロシアは大軍を満州(中国東北部)に送り込み、朝鮮半島にも圧力をかけ始めました。
朝鮮半島を守るために日本はロシアに宣戦し(日露戦争)、勝利した日本は、アメリカの調停により、満州における鉄道等の利権を獲得します。
第一次世界大戦後(1915年)、日本は、中国東北部におけるドイツ権益を継承し、満州における利権をさらに拡大しようとして、中国(袁世凱政府)に対華21カ条要求を認めさせます。袁世凱は、この要求を受け入れる一方で、中国国内での抗日運動に呼応して「懲弁国賊条例」を発し、日本人を排斥しようとしたのです。
1928年の張作霖謀殺事件を期に抗日の動きは更に強まり、日本人に対する土地・家屋の商租禁止と、貸借中の土地・家屋の回収へと発展していきました。立ち退きを強要された日本人居住者に不満が募ります。
そのような中で、北伐中の蒋介石(中華民国)は共産主義勢力に接近し、日清通商航海条約の破毀を宣言したのです。事態に危機感を募らせた関東軍は、満州を中国の主権から切り離すことを決断したのです。
関東軍は、日本が経営する南満州鉄道を自ら爆破し、それを中国の仕業だとして軍事行動に出ます。関東軍は、満州の要地を占領し、翌年、清朝最後の皇帝溥儀をたて「満州国」の建国を宣言したのです。
若槻内閣はこの事件を非難しましたが、軍の圧力に屈し、満州国を事後承認することとなります。満洲を植民地化したことで、日本の経済は潤います。満州事変後、日本から多くの開拓植民が海を渡り、満洲に定住しました。
【満蒙開拓団】は、満州事変から1945年(太平洋戦争敗戦時)まで、満州(中国東北部・内モンゴル地区)に、国策として送り込まれた入植者(約27万人)です。昭和恐慌で疲弊する農村を救済するための大陸への移民でした。対ソ戦に備え、屯田兵を養成する、という目的のもと【関東軍】により発案されました。1936年までの5年間に、年平均3000人の移民が送り出されました。1937年には【満蒙開拓青少年義勇軍(義勇軍)】が発足します。
太平洋戦争末期、開拓団からの招集が増え、1945年7月の「根こそぎ動員」では約4万7000人が招集されました。8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにし、残された者(約22万3000人)には、困難な逃避行が待ち受けるのです。
黒竜江省に住む最年長者が、ソ連国境近くにいた開拓団民が同村に逃れてきた時の様子を、「ぼろをまとい、女性は丸刈りだった」と述べています。
©Asahi,Naoko
満州国は、国際的には認められることはありませんでしたが、当時の日本国政府が認めた国家ですので、ここでは、当時の日本を基準として、あえて「満州国」と表記することとしました。その他、「当時の日本」を基準とした表現がなされていますことをご了解下さい。
投稿日 2017/〇/〇
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