【東金】【御成街道】【九十九里鉄道】
千葉県中東部の下総台地と九十九里平野に広がる【東金】は、下総台地の麓に沿ってJR東金線と国道126号・128号が走り、圏央道・千葉東金道路・東金九十九里が通る地です。
中世、千葉氏の一族が「鴇ヶ根城(東金城)」を築き、以後酒井氏が5代にわたって支配しました。 地名は中世に築かれた千葉氏の城「鴇カ峰城」「鴇ヶ根城」の転化によるといわれています。
江戸時代になると徳川家康が鷹狩に訪れるようになり【御成街道】【東金御殿】などが整備されます。
1889年の町村制施行により【山辺郡東金町】が成立し、1897年に【山辺郡】が【武射郡】と統合して【山武郡】となり、1954年に【東金市】が誕生したのです。
東金町から片貝村の間を九十九里軌道が走るのが1926年、翌年には鳴浜村から豊海村まで延びます。1932年に【九十九里鐵道】に社名変更されますが、1937年には、指定期間までに工事が着工されなかったため、鉄道免許が失効。1944年に京成電気軌道の傘下に入ります。1948年に鉄道と並行に東金・片貝間の路線バスが運行されることとなり、現在はバス専業となっています。
【御成街道】とは将軍などが通るために整備された街道で、将軍が鷹狩をする為に作られた【東金御成街道】と、日光参詣のために作られた【日光御成道】とがあります。
そのうちの【東金御成街道】は、家康が九十九里方面に向かうための道で、船橋市本町から東金市田間、山武市小松までの約37 kmを結ぶ街道です。東金市田間から山武市小松までの部分は【砂押街道】と呼ばれています。
造営には沿道の農民たちが駆り出され、「昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜兼行で工事が行われ、一晩のうちに完成した」そうです。そのことから「提灯街道」「一夜街道」とも呼ばれています(実際は数ヶ月間かけて完成)。
道中には将軍が休息・宿泊する為の施設として【船橋御殿(船橋東照宮)】【千葉御茶屋御殿(千葉市若葉区御殿町)】【千葉御殿(千葉市中央区中央)】【東金御殿(千葉県立東金高等学校)】【土気御殿(大網白里町池田)】が造られました。
明治維新後は各所で分断されますが、船橋から千葉市稲毛区六方町(陸上自衛隊下志津駐屯地の前)までは軍事国道となり、千葉県道69号長沼船橋線および千葉県道66号浜野四街道長沼線の一部として現存します。
若葉区若松町「鎌池」交差点付近から再び現れ、国道51号「若松町交差点」に至り、千城台の住宅街を通って「御成台1丁目」の交差点を過ぎ、谷を越えてしばらくして左折し「金親町」交差点へと至ります。その後千葉県道53号と重複し「御殿入口」で右折し、千葉県道66号の「富田入口」交差点へと至ています。八街市滝台から東金へ至る経路は不明ですが、東金市田間から山武市小松までは「千葉県道124号緑海東金線」として現存しています。
管理人のコメント
2002年に東金市と九十九里町を加えた合併が計画されていた際には「九十九里市」の名称が決定していました。東金市が合併から離脱し、結局は、東金市と九十九里町を除いた4町村で「山武市」が発足し、かつて「山武郡」の中心であった【東金】は、「山武郡」でもなく「山武市」でもない都市になってしまったのです。
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投稿日 2017/〇/〇
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